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言語学などの話をするブログ.

言語学の話と読んだ本、あとは好きな曲の歌詞の話などをします.

私たちは「買われた」展が孕む問題.

最近何かと話題になっているこの、私たちは「買われた」展であるが、この展示会にはどういう意味があり、それに対してどのような批判がされているのだろうか. 私個人の見解と共にこれらについて今日は倩と述べてみたいと思う.

 

1月に大津で行われたこの展示会には、実は私も参加をさせていただいた. 主催者である仁藤夢乃は、高校時代に何かと辛い思いをし、学業に従事することができず高校を中退したそうだ. その後、ストーカーに性的虐待を受けそうになったことがあるなどということが当人のWikipediaや著作などに書かれている.

そこで1つ気になったのは、彼女が「高校時代にホストとの交流を深め、彼らの誠実なサービス内容がそれが彼女の男性観に強い影響を与えた」という記述である. 

ホストという極めて特殊な男性の"サービス"に影響を受けたというこの事実は、考慮すべきものであろうからここでまず記述しておく.

 

まずこの、私たちは「買われた」展の趣旨は一体何なのであろうか. 簡単に纏めると、

 

1. 売春非行少女たちには辛い過去がある.

2. 売春が跋扈するのは少女たちの問題ではない.

 

の2点であろう.

 

まず、1について考える. 今回の展示会では、生活環境上の理由から「仕方なく」売春に手を出した少女たちに焦点を置いて、彼女たちの無実を謳っているわけであるが、それに対してネットでは「そんなの理由にならない」「こんな展示会で何かをできるくらいの精神ならば売春が良くないということくらいわかるだろう」などという批判が寄せられている. 

 

これに関しては、どちらの主張にも問題がある.

主催側の「少女たちには(押し並べて)辛い過去がある」という意見は完全に間違っている. 売春行為に走る少女の中には、ただ単にお金が欲しいから、性行為そのものに好色を示しているからという理由を持つ者も多く存在する.  そこを考慮に入れず、このような主張をするのは、木を見て森を見ずである. 

とは言っても、仁藤夢乃は意図的にそうしたのかもしれない. というかその可能性が高い. というのも、

https://youtu.be/DNmJ_qv1XMo

この動画を見て分かるように、彼女は「生活に困っている訳でもない子が売春に走る」という事実を重く捉えている*1

恐らく、今回のイベントでは「こういう子もいるんだ. 売春する側にも事情があるケースだってあるんだ」と言いたかったのであろう. ただ、複雑な背景を切り取ってこのような形で大々的に「売春に走る子には辛い過去がある」と謳う展示会を開催すれば、その背景を読み取れずに闇雲に批判をする浅薄な人々が現れることも容易に想像できる. そういう意味では、両者に問題があるわけであるが、寧ろこれは主催側の思慮不足に起因する所が大きいと言えよう. 「それくらい分かるだろう」という姿勢が、省いてはいけない情報までを省き、その帰結として批判を招くことは、アメリカで史上最悪の大統領がついこの間誕生してしまった状況と似ている. 何かを主張するときは、その主張を支える確固たる背景や理由などをはっきりと述べる必要があるのだ. 

 

2については、仁藤夢乃側の主張は概ね正しい. ただ、彼女の問題は、それがただの感情論で終わってしまっている所である. 「彼女たちは悪くないのです.」なるほど、そうかもしれない. だが、So what?という具合に、最も大切な部分が欠けている. 少女たちを守ろうと活動を続けていることは疑いようもなく素晴らしいことであるにも関わらず、具体的に状況を変えようとしていない. それはきっと、仁藤夢乃自身が(本当に失礼を承知で言うが)無知蒙昧であるため、単純に答えを導き出せないからであろう. 

彼女は、この問題を「非行少女問題」ないし「売春問題」の枠でしか捉えていない. 社会の問題だなんだと言っているが、あくまで彼女が目を配っているのはその「社会問題の中での売春問題」である. これは、1について述べた、複雑な背景を切り取っているという問題と共通している. 恐らく彼女がそこまで考えられていないからであろう. 経済的に悲惨な家庭に生まれた少女が非行に走ることは勿論解決すべき問題であり、そこに理屈などは必要ない. だが、その感情論に基づいた意見を支えるための理屈、理論は当然必要である. そこで次は、私個人が思う、この問題を解決する方法を提示する.

 

まずは、「好きで体を売る少女たち」と「そうせざるを得ない環境に置かれた少女たち」を截然と区別することが必要である. 前者を無理やり自分の物差しで測り、売春をする少女として括ろうとするから、「売春が悪いことなんてわかってるから本人が悪い」と言う人たちに対して建設的な反駁ができなくなるのだ. きっちりと、売春問題の解決のために論じられるべきなのは、「ただ身体を売ることそれ自体について」ではなく「身体を売らざるを得ないような複雑かつ悲惨な環境に身を置いた少女が、仕方なくそうしてしまうという事実について」である. 好きで売春をする少女なんて日本中に蔓延っており、そういう人たちは「売春が悪いこと」などと思っていない. 彼女たちに救いの手を差し伸べたところでそれは彼女たちにとっては邪魔でしかないし、余計なお節介である. そういう少女は、言い方は悪いが「放っておけばいい」のである. (売春をする女性の大多数はこういった類の人たちである).

そして、実際に複雑な背景の元で売春をせざるを得ない少女たちを救う方法は簡単ではない. その複雑な背景というものが変わらない限りは、この問題は解決しないためである. そしてその複雑な背景というのは当然社会問題と強く結びついている. より具体的に言えば、生活保護の問題、教育の問題、そして福祉の問題がこのような状況を生み出している. もちろん、親の子育ての方法も大きな要因であろう. 

あまりその存在意義を見出せない(公立及び)私立大学を減らし、残った大学への入学者数を少しずつ増やす. 同時に教員数も増やす. すると自ずと経費等は浮いてくる. 余剰分の金額を生活保護や福祉に回し、大学に進学しなくても職に就ける(パートでもなんでも良い)という事実を広めることで、国としての土台もしっかりとしてくる. 大学は本当に学びたいことがある人や将来の明確な目標がある人たちだけが行けばいい. この国には無駄な大学が多すぎる. そして奨学金無償化も必須であると言える. 奨学金=借金って、どれだけ遅れた国なんだ、日本は. 

それと、仁藤夢乃は、本気でこの問題を解決したいのであれば、もう少し賢くなる努力をするか、賢い人を雇ってその人に実際の活動をさせるべきである. 意気揚々とホストの接客の素晴らしさに感動を覚えたと言っていることや、自身の精神状態が不安定であったから優しさを彼らに求めるしかなかったと言っていることなどを例に取れる. ホストの対応に影響を受けたというのは、自分の非行時代の辛い思い出を振り返って述べたものであろうが、ホストに通うことと当時の精神の薄弱さは全く無関係である. 私自身精神病を患った経験があるから言えることだが、無作為に優しさを求めてホスト(男性の場合は風俗やそれこそ売春、またはガールズバーやキャバクラ)などに癒してもらおうとするのは、精神病の所為ではない. それは、本人の浅はかな決断が生んでしまうものでしかない (それを言ってしまえば売春に走る女性全員も同じだろうと思うかもしれないが、それは違う. "経済的な事情"というものを忘れてはいけない. 確かに精神病を患っている人間の多くは金銭感覚がおかしくなるが、それでもトチ狂ったようなことはしない). 

 

仁藤夢乃は、活動している内容自体は賞賛に値するが、思慮が足りていない. そして批判を浴びやすいのは、その思慮の足りなさ故に、この問題から日本全体を否定して売春問題を過剰に大きくしてしまうことが多々見受けられたり、反日極左的な発言を行うためであろう. それと、まともに統計などを取ることもなく、憶測だけで全てを決めつけてしまう所にも問題がある. だから、「秋葉原では2m間隔で少女の身売りが行われている」などという適当なことが言えるのであろう. さらに、複雑な背景を切り取って話を進める所為で、余計に人々の反感を買っている. このまま放っておけば、大阪の、信じられないくらい浅薄で出来の悪い脳みそを持つ、上西なんちゃらとかいう無能議員と同じ道を辿ることになり兼ねない (まぁ、上西に関してはまず唱えている政策そのものが彼女の頭の悪さを物語っている上に、他人のため、国民のためではなく自分のことしか考えていない政界の癌のような女であるため、仁藤夢乃とは本質的には違うが).

 

このような状況を打破するために、彼女にはもっと「建設的な議論」と「問題の本質を見抜くこと」ができるようになることを切に願う. 

このままいくと、ただ「私こんなことしてる、考えてる、偉いでしょ」と悦に浸りたいだけの可哀想な女性で終わってしまう.

 

 

 

*1 仁藤夢乃はそれが大きな社会問題であると述べている. そこには同意するが、彼女の主張には誤謬もある. この種の少女たちは純粋に好きなことを仕事としてやっている感覚なのであり、我々が想像するより遥かに売春行為に対する考え方が特殊である. 彼女たちはあくまで性行為そのものに悦びを覚えているのであり、「お金を貰えるのなら一石二鳥」という風に思っている. お金を稼ぐために体を売っている売春とは次元を異とするものである. 

一昨日、ペトロールズのライブに行ってきた.

いやあ、素晴らしかったです、ペトロールズ.

なんというか、彼らの音楽には言葉では言い表せないような良さがありますね.

聴けば聴くほど、脳みそから体内が溶けるような錯覚を感じさせてくれる. しかも、ただそれだけでは飽き足らず、少しダンサブルな感じや、しっとりとした曲調から一転して激しいロックサウンドへと切り替わるといったような転調なども駆使して我々を魅了してくれる. それに加えて彼らの比喩的かつどこか啓発的な歌詞はまさに見事であるとしか言えない. 

これらの魅力は全て、「お金を稼ぐためとかではなく、純粋に自分たちのやりたい音楽をやるためにこのバンドは活動してるのだ」という彼らの強い意志から来ているのだと思う.

東京事変のギタリスト・浮雲こと長岡亮介を中心として、あらゆる柵から解放され、自分たちの本当に出したい音、書きたい歌詞などを自由に作り出している姿は、有名になるために、売れるためにバンド活動を続ける最近の所謂邦ロックバンド達には真似できないものであろう. 更にメンバー3人ともギター、ベース、ドラムの技術はずば抜けているしメロディセンスも「なぜそんなのが思いつくんだ」となるものである. 

この「のびのびとお金儲けのことを考えずに好きな音楽をやる姿勢」と、各々のメンバーの「卓越した技巧」が織りなすペトロールズの曲1つ1つが独自の味を持ち、それ故にファン達を飽きさせることなく、従って、ペトロールズのファンを名乗る人たちは皆「ペトロールズの曲は全部聞くよ」といったような具合に、「にわか」と呼ばれる枠には収まらない人たちばかりになるのであろう.

 

まあ私はそんな大ファン達に比べればまだまだファン歴も知識も浅い不束者であるが、ここでは調子に乗らせてほしい(笑)

 

ということで、私の特に好きなペトロールズの曲を何曲かここに貼っておく.

 

1. Profile

https://youtu.be/aYRGVa4K6JM

私がペトロールズにハマるきっかけを作ってくれた曲である.

動画を見てもらえば刹那のうちにわかっていただけるだろうが、この曲を聴いていると本当に勝手に体が動き出すのである. 一体どうやってこんな普遍的に聞こえて実はかなり手の込んだ音である、みたいなギターの音を出せるのだろうか. 長岡亮介は天才だ.

ジャンボのベースもまさに「基盤」となり、長岡のギターをうまい具合に引き立てつつ、しっかりと自身の音を主張している.

そしてドラムも、最近流行りのビートではなく、どこか大人びた、洗練された印象を与える.

 

2. 表現

https://youtu.be/dkFIwlrqZQk

どこかバブル期あたりの音楽を思い出させるところはあるのに、全く古臭くなく、むしろ革新性を感じさせる.

何と言っても「声に出して」からのサビが最高だ. これも体を動かしながら長岡の声に合わせて歌わずにはいられなくなる. ライブで聴いた時は全身に鳥肌が走った. 

星の見える夜、ベランダでお酒を飲みながら聴くと、何とも心地良い気分になれそうだ.

 

3. 雨

https://youtu.be/79oWpgGevQM

タイトルそのまま、雨の降る日に愛する人を想いながら聴きたい曲.

哀愁を感じさせる曲調ではあるものの、間奏などの激しさは、愛する人への自身の強い想いを暴力的にかつ優しく表している気がする.

何と言ってもこの曲の歌詞は素敵だ. 詩的で難しすぎないため、「あぁ、そういうことか!うわぁすごい素敵だなぁ」という感情をすんなりと得ることができる.

そんな詩的な歌詞、哀愁漂うメロディ、そこからの激しい音、そして長岡のどことなく悲しげでありながらも力強い声、これら全てが見事にマッチしていて、このような傑作が生まれたのであろう. いやぁ、たまらない.

 

ちなみに、こんなバージョンもある.

https://youtu.be/MUNEXBRJMdI

 

 

以上ペトロールズのおすすめ三曲を紹介したが、もちろんどの曲も素晴らしいので、気に入っていただけたら他の曲も聴いていただきたい限りである.

 

ドラムのボブのサインだけはゲットできず. 無念.

 

f:id:LennonMcCartney122620:20170221120352j:image

日本人は没個性的でつまらない人種?

こんにちは. 最近、22時ごろに寝て3〜4時に目覚め、そこから12時頃まで起きてまた寝て15時ごろに目を覚ますという生活リズムが完成しております. 不眠症というか自律神経の乱れは我々の寿命を縮めますので、少しでも体に異変を感じたら心療内科に行くことをお勧めします.

 

さて、本日は私が常に抱いている、日本人と英語母語話者の間に存在する思考の乖離についてお話をしようと思う.

 

皆さん、自分の好きなバンドなりアイドルなりを思い浮かべて欲しい. あなたは、なぜそのバンドを好きになったのかを説明できるだろうか.

 

多くの方は"嵌ったキッカケは当時の親友(好きだった人、両親、兄弟、親戚など誰でもいい. 要するに自分以外の他人)が好きだったから"と言うだろう. そして大半の日本人にこのような傾向が見られるため、今度は誰かが飽きると自分も飽きるみたいなことが起こる. 日本のバンドやアイドルの人気が俄かなものである一因と言えよう. こういった事実があるにもかかわらず長い間人気を保っているバンドやミュージシャンには、それぞれ卓越した個性が存在する. たとえばスピッツの曲のメロディにはヒーリング効果がある(精神科の先生が言っていてなるほどとなった)し、歌詞は何か詩的で個々人によって全く異なる様々な解釈が可能であるという良さがある. Mr.Childrenの曲は、当たり前だけど、みんなが気づいていなくて、「言われてみればそうだなぁ」となるような歌詞を、キャッチーなメロディに乗せて運んでいるものが多い. 東京事変はメンバー全員がそれぞれ卓越した技巧を駆使し、様々なジャンルの音楽をミックスするという斬新さがあるし、サザンオールスターズはみんなが言いたいけど言えないみたいなことを歌に乗せて代弁してくれる.

 

少々話が逸れたが、押し並べて日本人にはこういう、"あの人が好きと言っているから私も好き"とか、"世界中で評価されてるから良いに違いない、だから私も好き"あるいは"彼が嫌いと言っていたのを聞いてからなんか好きじゃなくなった"みたいな、集団主義的な考え方をする傾向がある. 敢えて悪い言い方をすると没個性的である. しかしそれが日本人のポライトネスを重視する考え方や、自分の幸せと同じくらい他人の幸せを願い、できることをしてあげるなどと言ったいいところを反映しているとも言える. 留学なりワーホリなりで海外に行って所謂"海外かぶれ"になった厚顔無恥で浅薄な人たちは「日本人は没個性的だから良くないわ」などと声高に主張するが、そういう人たちは物事を主観的にしか捉えられない哀れな人種である. 没個性でもなんでも、それが日本人の特徴であり「没個性的という個性」なのであるというただそれだけの話だ.

 

言語学の中の一分野である語用論においてこのような日本人の特徴は取り沙汰されている.

 

Kaplanという心理学者は、日本人は常に周りを気にしながら話をするので、「あ、このことが言いたい. あ、そういえばあれも.」と言うように、1つの話題について話していてもすぐに他の話題について話し始める傾向があるという. この、周りを気にしすぎるという特徴は、先の「集団主義」の話にも通ずることは容易に分かる.

このような日本人の特徴は、日本人が周りを気にするが故に、周りに流されやすいという一般化ができるのではないだろうか.

 

対して、英語話者は、「1つのことに集中しすぎる」傾向がある. 英語の小説を読んでいても、「まずこれについて話す. それが終わったら次はこれについて話す. そのあとはこれ.」という文章構造が見てとれる. 日本人の「あ、これも話したいあれも話したい.」とは正反対のように思われる. 

この事実から分かるように、英語母語話者には、周りをキョロキョロすることなく、一旦自分が決めたことはやり通し、そのあとで他のことを1つずつ終わらせていくというような傾向がある.

この事実は、英語母語話者の「個人主義」的な考え方、信条に基づいている. 自分という個人を最優先すると同時に、他人という個人も尊重するため、多様性を受け入れる体制が、集団の中の個人を重視する日本よりも整っている.

 

この、日本人と英語母語話者たちの、集団主義個人主義に基づく考え方の相違点を考えることは、自分たちが海外の人にはどう見られており、他国の人たちはどのような考え方をするのかということに対する理解が深まり、ひいては異文化理解や外国語力の向上にもつながるのではないだろうか.

A Merge-only Viewが秘める言語生得仮説への可能性.

皆さんこんにちは、ダイキです.

大学院は、今所属している大学ではなく他の大学の大学院に行くことになりそうだ. というのも、やりたいことをやることが勉強、あるいは研究だと思うので、自分にとって最も魅力的な研究をされている教授のもとで学ぶことを決意したのだ. まぁ、ここで四年間も過ごして、鋭敏な知性というものを感じさせる学生がいないことが解り、故に刺激が足りないのではないかというのもこの決断の理由の1つだが(能ある鷹は爪を隠すというので、結構じっくりと期待しながら観察をしてはいたが…).

 

今回は、前回の記事の続きということで、NeurolinguisticsやBiolinguistics、更にはEvolutionary Linguisticsに基づいた言語生得仮説の可能性について論じたいと思う.

 

一口に進化言語学や生物言語学、あるいは神経言語学と言っても、その様態は多種多様であり、OIC(Ostensive-Inferential Communication)に基づいた関連性理論、認知理論的なアプローチを試みる進化言語学や、言語の歩んで来た歴史に着目をすることで普遍的な規則を探る歴史言語学的なアプローチを試みる生物言語学などがある. ここでは、私の専門である理論言語学(生成文法)に基づいて、言語の起源とその原因を探っていきたいと思う.

 

Chomsky(1995)から盛んとなっているミニマリストプログラムという生成文法の新展開において、その理論の中核を担っているのがMergeという操作である. Mergeとは、ある要素AとBを併合し、そのセットにラベル付けをするという操作を指す. これが再帰的に行われているのが人間言語であり、Mergeは人間に特有の操作であるというのがChomskyの主張である. GB理論やP&P、あるいは障壁理論において用いられていた規則はほとんど廃止されており、従来の生成文法理論において最も重要な要素であった移動という操作も、内併合(Internal Merge)という操作に置き換えられている. Mergeのすごいところは、その操作のみであらゆる言語現象を説明できる可能性を秘めている点である. フェイズ不可侵条件や連続循環移動などは、言わばMergeという理論に付随して生まれる二次的な規則であり、広い意味でMergeの下位範疇であると言えよう. Mergeという操作は、科学理論としても美しい. 科学において最も重要だと言えるparsimonyという概念を貫いている. 本当にチョムスキーは天才であるという事実を感じさせる画期的な理論である. 

 

まぁ、Mergeの説明はここまでにして、具体的な内容に入っていきたいと思う. Fujita(2009, 2014, 2016)やGreenfield(2002)などにおいて提唱されている言語生得仮説への新たなアプローチとして、「Mergeそのものは人間以外の生物も持っており、それを言語に応用することが、人間のWorking Memoryの能力の進化とともに可能となったため、人間言語にはMergeという操作が存在するのだ」というものがある. その様相について簡単に説明する.

 

[Action Merge]

Action Mergeとは、言語に応用される以前のMergeのことであり、例えばチンパンジーがnutsを割るという動作に、この操作が適用されている.

チンパンジーがnutsを割る時に使用する道具は、hammer、anvil、そしてwedgeである.

まず、wedgeとanvilをMergeすることで、nutsを置く安定した土台を作る. この時に、

 

α {anvil, wedge}

 

というセットが生まれる.

こうして完成したαというセットに、主役となるnutsを外併合(External Merge: EM)することで、次に生まれるセットが、

 

β {nuts, α {anvil, wedge}} 

 

である.

そしてこのβにhammerをEMし、チンパンジーのnuts割りという動作が完成する.

 

γ {hammer, β {nuts, α {anvil, wedge}}}

 

こう考えることで、言語即ちMergeという操作のPrecursorを仮定することができ、ひいては言語というものがコミュニケーションツールとして生まれ、発展してきたのではなく、the instrument of thoughtとして突然変異的に人間の脳に生起したという仮説を強固にすることが出来る.

 

このような操作を言語に応用したのが、Pot-MergeとFujita(2016)が呼ぶ操作である.

 

[Pot Merge]

Pot-Mergeとは、ある要素A, B, C (A>B>C)が存在する時に、その大きさ(要するに重要性)に従ってAとBをまず併合し、そうして完成したセットに一番小さいCを併合するという単純なrecursive Mergeのことである.

 

それとは別に、Sub-Mergeという操作が存在するという.

 

[Sub(assembly)-Merge]

Sub-Mergeとは、先のようなA, B, Cが存在する時、まず一番大きなAではなく、BとCを併合し、そのセットにAを併合する操作のことを指す.

 

Pot-MergeとSub-Mergeは似ているというかほとんど同じように思われるかもしれないが、そこには決定的な差がある.

Pot-Mergeが、単純に大きさに従って順次Mergeを行なう作業であるのに対し、Sub-Mergeでは、"意識的に"Aを無視してBとCを併合したのちに、そのセットと最も大きいAとをMergeするのである. 当然、この意識が働いている分、Sub-Mergeの方がより多くのWorking Memoryを要求するため、脳への負担が大きい. このSub-Mergeを行なうことが出来るようになった時点で、人間言語が生まれたのではないかと言うのがFujita(2016)の主張である.

 

たとえば、a student film committee Fujita(2016)という名詞句は、以下の2通りの解釈可能性を持つ.

1: a {{student, film}, committee}

2: a {student, {film, committee}}

 

この多義性は、分散形態論における統語規則を適用した考え方( Marantz(1997) etc)を用いれば、Pot-MergeとSub-Mergeの違いであるとすぐに気づくことが出来る. 

2の解釈が1の解釈よりも得られやすい理由は、2ではcommitteeを常に基準とした併合である(すなわち併合の始点から着点まで一貫してcommitteeがラベルとなっている)、Pot-Mergeであるのに対し、1ではstudentとfilmがMergeした時点でstudent若しくはfilmがラベル付けされたセットにcommitteeがMergeすることで、今度はcommitteeがラベル付けされるという、Sub-Mergeであるためである. Sub-Mergeの方がより高度なWorking Memoryを要求することから、2の解釈の方が簡単に得られるのであろう. 

 

以上のことをまとめると、人間言語は我々の脳内に存在する、Mergeという操作、厳密には、Action Merge、 (ここでは述べていないがPairing-Merge:ある要素AとBを単純に併合する操作のこと.)またPot-Mergeよりも高度なWorking Memoryを要するSub-Mergeによって可能となった生得的なドメインであり、Mergeそのものは他の動物も有している. Action MergeからLinguistic Mergeへの進化がそのまま人間言語の起源の謎を探る手がかりであり、what is human language?という問いに対する答えを持っていると考えられる.

 

その他にも、この考え方を利用したlabelingについての諸問題の解決案や、この理論の持つ問題点などについても触れておきたいが、長くなりそうなのでまたの機会にしようと思う.

 

そう言えば、私が崇拝するミュージシャンの一人、David Bowieの展示会予告映画 David Bowie Is...(ちょうど去年の今頃に難波の映画館で観た覚えがある)において、Davidが「麻薬に頼らずに哲学的で面白い歌詞を書くには、こうやって単語やフレーズをバラバラにしてそれぞれをパソコンを使って一個ずつ組み合わせて、それを積み上げていくんだ. そうして出来上がった歌詞の一部一部には、その歌詞において中核を担う要素が存在する.」というようなことを言っていた. なんと、Pot-MergeあるいはSub-Mergeとそっくりなことをしてるじゃないかと、感動の余り鳥肌がたった覚えがある(その頃はPot-MergeやSub-Mergeという言葉そのものは知らなかったので、正確にいうとMergeそのものを想起した).

 

最後に、なんとなく英文を書きたい気分なので私の考えを英語でまとめておく.

 

In this century, scientific fields can never maintain its existence unless they absorb critics' logical and beneficial knowledge or standpoints. Syntax (or theoretical linguistics) is not an exception at all. To seek the origin and evolution of language, it is necessary to expand our horizons and look at each phenomenon and law of language grammar from an interdisciplinary point of view. This neurolinguistical and biolinguistical approach consists of such a very significant way of how science should be, which might enlighten us and give us the clue to answering the simple and extraordinarily difficult question: "what is human language?"

The axioms and theories in the field of the Minimalist Program are all based on the single operation: Merge, which is desirably and idealistically parsimonious and beautiful as a science theory. Merge can yield evidence of the existence of UG.

 

[reference]

Chomsky, N. 1995. The Minimalist Program. Cambridge, MA: MIT Press.

Fujita, K. 2016. On the parallel evolution of syntax and lexicon: A Merge-only view, Journal of Neurolinguistics.

Hauser, M. D. 2009. Origin of the mind (pp. 44-51). Scientific American.

Hayashi, M. 2007. A new notation system of object manipulation in the nesting-cup task for chimpanzees and humans, Cortex, 43, 308-318.

 

理論言語学と認知言語学の大まかな共通点と相違点

最近一層と寒くなってきました. 皆さんも御身体ご自愛下さい.

そういえば(そういえば という日本語は非常に面白い. 英語では状況に応じてspeaking of whichやらby the wayなどと言うのに対して日本語ではコンテクストの如何に関わらず、そういえばという一言だけを使えばそれで済む)、私はよくアルバイト先で外国人のお客様の対応をするとき、決め台詞のように"fever is going around in Japan, so please take care of yourself."と言う癖がある(もちろん、寒い日や風邪が流行っている時にしか言わないし、夏場は単に"thank you for visiting us, I hope we can meet very soon again."などという言葉で会話にパンクチュエーションを打つ).

 

個人的に、英語(やその他諸外国語)学習において、半ば強引に口癖を作ることは非常に有効であると思う. 話を円滑に進めるためにはどうしても必要であるし、母国語において我々が口癖を持っているように、外国語を学ぶ際にも口癖をセットしてもなんら問題はないだろう(ちなみに、日本語で話している際の私の口癖は"やっぱり"で、英語で話している場合には"a sort of"とよく言うそうだ).

とにかく、口癖というのは、個々人の会話を円滑にしてくれる潤滑油のような働きをする上に、その人個人の考え方を反映したものであるがゆえに内省する際の材料にもなる. 他人の口癖を見つけるのが上手い人は人間観察が上手く、従って的確なアドバイスをしてくれることが多い. きっとそういう人は、自己分析もうまいのであろう.

 

 

さて、そろそろ本題に入ろうと思う. "そういえば"のところで既にお気付きの方もいらっしゃるであろうが、私は言語学オタクである. 一口に言語学と言っても、私の専門は生物言語学、進化言語学や理論言語学であり、他にも認知言語学や音声学、音韻論など様々な下位範疇が存在する. 言語学の諸分野を截然と区別することは不可能であると言えよう. なぜならば、諸分野は互いの論を強めたり(時には反駁したり)根拠づけたりする働きがあり、二項対立的な関係にあるわけではないからである. ここでは、もっとも言語という事象を体系的に捉えていると言える理論言語学認知言語学の間に存在する乖離と共通点について話したい. 

 

1. 理論言語学(生成文法統語論)

理論言語学(theoretical linguistics)とは、Chomsky (1957)から盛んとなっている言語学の一分野である. その特徴としては、言語とは人間の脳に突然変異的に生起したものであり、その元来の存在意義は"the instrument of thought"であった. コミュニケーションツールとしての言語の使用はいわば二次的な発明であり、言語の本質を捉えるに当たって言語はコミュニケーションツールであるという固定観念に基づいているソシュールのアメリカ構造主義を強く批判したこの論文は、世界中の言語学者のみならず有識者たちを震撼させた. ちなみにチョムスキーは世界中の存命の人間の中で論文や本における索引(された)回数が世界一多いことで有名である. 

理論言語学者達は、言語を科学的に捉え、脳科学や生物学、更には物理学などの他分野と関わりながら言語の本質を探る. その方法はある現象から普遍的な規則を発見し、その規則を用いてあらゆる言語事象を説明しようと試みる演繹的なものである. 生成文法は物理に似ていると言える.

生成文法学者(理論言語学者)は、言語は生得的なものであり、人間の脳の中に言語を司る分野が存在すると主張している(ブローカー失語やウェルニッケ失語をその主張の根拠に使うことが多い).

 

2. 認知言語学(意味論)

認知言語学(cognitive linguistics)とは、George LakoffやRay Jackendoffなどに代表される言語学の一分野であり、その特徴はまさに1で説明した生成文法の正反対である.

言語ごとの特徴をそのまま捉え、この言語にはこのような認知的作用が反映されている、という風にいわば帰納的な方法で言語の諸規則を説明し、言語獲得(あるいは言語生得性仮説)とは真逆の、「言語は文化と個々人の環境を反映したものであり、成長と共に人間はあらゆる周りの人間の刺激を受けることで言語を"習得"していく」というのが認知言語学者の考えである. サピアウォーフ仮説(Sapir-Whorf Hypothesis)はそのような考え方の最たる例と言えよう. 簡単にサピアウォーフ仮説を説明すると、「言語は思考や文化を反映したものであり、たとえばイヌイットの言葉には雪を表す単語が7つあるように、その民族や人々の生活の模様や実態を大きく反映しているのである」と言ったところか. 

認知言語学者は私から言わせれば「メタファーオタク」である. あらゆる言語現象をメタファーで説明し、メタファーこそ人間言語の特徴だと言い張る姿勢は正直に言ってあまり理解出来ない.

 

敢えてこのような言い方をするが、理論言語学は理系的であり、認知言語学は文系的と言える.

 

まあそもそも認知言語学というのは生成文法(あるいは理論言語学)に異議ありと言いたくて仕方がなかった人々によって確立された学問であるので、両者が啀み合うのも無理はない. しかし私から言わせてみれば「生成文法vs認知言語学」みたいな単純な対立構造を考える言語学者(沢山いるが)は全く言語の本質をわかっていない無能であり、両者のいいとこ取りをし、さらには他の学問とも整合性を見出した新たな言語学の進展が「言語とは何か?」という普遍的かつ難解な問いへの答えに繋がるのである. 少なくともとも私はそう信じている.

 

となると、両者の共通点、そして乖離に目を向けないわけにはいかない. そこで、今回は生成文法認知言語学の相違点と共通点に目を向けていこうと思う.

 

A. 両者の共通点

まず挙げられるのは、生成文法学者も認知言語学者も、目的は等しくwhat is human language?という問いに答えることである. 手段や考え方に差はあれど、両者の目指す先は同じであるという揺るぎない事実は、両者が手を組むべきであることを最も簡潔に表していよう. 21世紀の科学において、対立意見を全て跳ね除けようとする姿勢そのものが間違っているのだ.

また、両者ともに言語の構造に重点を置いている学問だと言える. この点においては、言語の構造の解明を目指すメソッド、あるいはその道筋が完全に異なるが故にわかり合うことは難しい. 私個人は生成文法派なので、認知言語学における言語構造の捉え方には疑問を感じ続けている. そういう意味では相違点とも言えよう.

 

B. 両者の相違点

先に述べたように、認知言語学生成文法では言語構造を捉える方法が全くと言っていいほど異なっている.

生成文法は、言語の文法構造の普遍性に着目して普遍文法(UG: Universal Grammar)の解明を目指しているが、対して認知言語学は言語構造(あるいは語そのもの)の持つ「意味」に着目をする. 認知言語学の根底にある「言語は生得的なものではなく学習することで得るものである」という考え方に沿ったものである. 生成文法では意味と文法は(ほとんど)切り離して考える. 言語を言語足らしめる唯一無二の存在は文法であり、文法とは全ての人間に等しく突然変異によって与えられた「思考のための道具」であるが故に二次的作用としてコミュニケーションとしての使用が可能となったのだというのが私を含む理論言語学者の主張であり、それに対して「狼に育てられた子供達は文法を持たない言語を話すし、フィリピンの田舎町で日本語を母語とする人間と英語を母語とする人間が会話する際に用いられる言語にも文法は存在しない(このように文法をもたない言語をpidginという. cf: creole.)文法ではなく意味こそが言語を言語足らしめているのだ」と反対するのが認知言語学者である. UGの諸言語への応用にはcritical periodが存在し、0〜6歳までの間に一切の言語インプットがない場合は言語そのものあるいは文法を持たないまま育っても何ら不思議ではないというのが私の見解であるが、話し始めると50ページほどの論文が書けてしまうので割愛させていただく. 

 

C. まとめ

以上、理論言語学認知言語学の共通点と相違点を見てきてわかるように、私は根っからの生成文法派である. だからと言って私が、認知言語学がまるでダメだ、ということでは決してなくて、寧ろ、言語が思考の道具として人間の脳にUGと共に突然変異的に生起したとするならばコミュニケーションツールとして作用するのは当たり前のことであり、それ故に言語の意味的な側面について塾考することも言語脳の解明、言語の生得性の証明に必要不可欠であると思う. 繰り返して言うが、両者のいいとこ取りをした上で、生物学、脳科学、物理学、心理学、社会学、論理学、さらには哲学などといった学問と複雑に関わり合い整合性を見出すことで、interdisciplinaryな言語学の在り方が見えてくる. このような在り方が、これからの言語学にとって最も重要な形であると言えよう.

そのような在り方を最も簡潔かつ的確に表しているのが、私の専門である生物言語学や進化言語学なのだが、これについてはまた次の機会に書こうと思う.

 

 

 

George Orwellの1984とAnimal Farmを読んで.

初めまして、ダイキです.

これからちょくちょく読んだ本の感想とか、言語学に関する面白い事象や理論について書いていけたらと思っています.

 

さて、9ヶ月ほど前に精神病を患って以来、私は専ら読書にハマっている.

読書と言っても、読むのは基本的に学術論文か、それに類する学術書ばかりで、多くの方が読書という2文字を見て連想されるような小説と呼ばれるジャンルには縁のない人生を歩んできていた(とは言っても、並の人よりは小説は読んできたつもりだが.)

 

そんな私に小説を読む欣びを与えてくれたのは、これまた言語学オタク感がして恥ずかしいので声を小さくして言うが、ノームチョムスキーである. 彼の論文、講義、テレビでの取材などを拝見していると、 "George Orwell's 1984"という台詞を見かけることがしばしばある. 一応高校では英文学についても勉強していたので、ジョーオーウェルが何者か、1984年という小説がその卓越性故に大ヒットを記録し、さまざまな小説家に影響を与え続けていることは知っていたが、具体的にジョーオーウェルの何がすごいのかということまでは知らないままであった.

理論言語学に傾倒している私にとって、チョムスキーという学者は、言語学界のビートルズでありアインシュタインでもある. そんな彼が事あるごとに言及するジョーオーウェル1984年を読まずして、チョムスキニストを名乗れないと思ったのが、1984年(と動物農場)を読むに至ったきっかけである. まぁこれは5年ほど前の話で、精神病を患う遥か前のことであるが.

 

こうして1984年を読み始めたわけであるが、なるほど前評判通り造語難単語が多い. ただ、ジョーオーウェルの凄いところは、難しい単語も造語も全て(少なくとも有識なネイティヴの高校生程度の英語力があれば)予測できるようになっている点であろう. ニュースピークやプロールなど、聞き覚えのない造語が出てきたとしてもそれらの意味は全て簡単に予測することができる上に、その単語たちが物語の核を担っているのである.

 

1984年という小説は、スターリン時代の全体主義ファシズムを痛烈に批判したものであるというのが一般的な見解である. しかし、皮肉にもファシズム社会主義の厭世的未来を描いたこの小説は、資本主義が基盤となっている現在の我々の社会においての政治的問題や社会的堕落を予期していたかのごとく忠実に再現している.

ディストピア↔︎ユートピアという二項対立、二律背反のように思えるこの2つの言葉のうちどちらを1984年の世界観に当てはまるかという質問をされれば、殆ど皆が前者と答えるだろう. しかしジョーオーウェルはこの1984年において、ディストピアユートピアという言葉の間に存在すると言われている意味的な乖離に疑問を投げかけているように思われる. ユートピアという単語はギリシャ語に由来しており、その原義は"存在しえない世界"である. これが楽園的な意味で定着したのち、否定接頭辞disが形態素としてutopiaにくっついたディストピアという単語が生まれた. 意味はまさしくユートピアの反対である.

話を元に戻すと、ユートピアと呼ばれる世界を哲学的に捉えた時、それは個々人にとって不満が一切ない世界のことを指す. 要するにそれを客観的に、まるで神にでもなったかの気分で外野から見つめて「あぁ、あの人たち本当は洗脳されてるだけなのに、それに気づいてない. ディストピアで生きてて可哀想だ」などと宣った所で、それは外野である個人がそう判断しているに過ぎない. 本人がそれをユートピアと判断し、享受している限りその人にとってユートピアであることに変わりはない. 要するに、ディストピアであるかユートピアであるかということに関して意味的な相違などなく、両者の間に存在するのは個々人の幸せの尺度、物差しによって計測された「私にとっての幸せとはこれだ」という迷信の元に規定された基準に基づいた幸せの振り幅の違いのみである.

主人公スミスは独裁的でなおかついき過ぎた全体主義を推し進めるビッグブラザーのやり方に疑心暗鬼になり、過去を改変するという自身の仕事にも嫌気がさしたことで皮肉にも洗脳によってビッグブラザー万歳人間になってしまうわけであるが、洗脳後の彼にとっての世界はまさにユートピアであり、それまで彼がディストピア以外の何物でもないと思っていた世界が、その実態を変えることなくユートピアへの移り変わったのだ.

つまり、生き過ぎた社会主義が悪いとか、現在の社会においてもこのようなことが密かに行われているとかそういうメッセージももちろんジョーオーウェルの中にはあったのだろうが、本当に彼が伝えたい事実はそんなことではない. もっと哲学的に考えた時、彼の意図は見えてくる.

それは、自分の生きる世界に満足するかしないかは個々人の自由であり、その世界が満足できるものか否かを測る方法は我々の非科学的な尺度を用いることによってのみ可能であるということだ.

 

余談だが、サピアウォーフ仮説に基づいて話を進めるのであれば、言語が我々の世界を切り分けるため、ニュースピークしか存在しないユーラシアでは個々人が全くもって同じような思考しかできず、従って統率、洗脳を受けやすいため、独裁政治の被害者となっているのだと言い切ることができる. サピアウォーフ仮説には真向から反対している私も、1984年を観た後に「あ、ウォーフって意外とまともなこと言ってるのかな」と一瞬でも思ってしまったのでジョーオーウェルは私のことも洗脳したと言えよう.

 

 

動物農場についても同じことが言える. ジョーオーウェルはこの小説を通して、社会主義という電車が向かう終点は独裁的で全体主義的なゴールを追い求めすぎるが故の破滅であるということを私たちに訴えている. 痛烈なスターリン批判を織り成すこの小説は、ジョーオーウェル自身のスペインでの戦争経験が、ヘミングウェイなどとは全くもって異なる形で活かされていると言える. ここでも、多くの人々(動物たち)にとってはユートピアであるように思われる世界を他の視点から切り取った時に、途端にディストピアのように思われるということが述べられており、1984年同様、弱者の肩身の狭さが気味悪いほどに現実に忠実に描かれている.

ただ、1984年と動物農場との間の相違点は、前者ではディストピアユートピアを形成する(個々人の脳内の)洗脳、そして独裁を描いていたが、後者においては全く逆の、ユートピアディストピアを形成する全体主義の在り方を描いているのである.

恐らく動物農場ディストピアと認識され失敗に終わった原因は、独裁者自身の知性と資本主義的な欲望の芽生えであろう. 1984年では資本主義的側面は描かれず、動物農場ではそれが描かれていたところにも、ジョーオーウェル自身の政治的観念や信念が伺える. 徹底した社会主義は人々を洗脳しない限りディストピアであり続けるが、洗脳が完了すればそれはユートピアとなり、社会主義に資本主義的な概念が織り込まれた瞬間にその社会は崩壊する.

 

資本主義と社会主義の両立が不可能であるこの事実は、丁度ユートピアディストピアの関係のように思われる.