まーじブログ

理論言語学や思想の話など.On Twitter as @syntacticmerge

理論言語学と認知言語学それぞれが目指す先は?

こんばんは.

 

ひとつ前の記事で,起きたらこの記事を書くと言っておきながら,本を読んだりお風呂に入ったりご飯を食べている間にこんな時間になってしまいました.

 

今回は,私の専門である理論言語学と,それと対立(?)する学派である認知言語学の基本的な相違点をおさらいした上で,それぞれどのような目標を設定していて,どのような角度からヒトの「言語」を見ているのかについて書いていきたいと思います.

両者の基本的な共通点と相違点に関しては,まずこちらの記事を参照されたいです.

lennonmccartney122620.hatenablog.com

 

ここではまず,上記事の内容を補填したいと思います.その嚆矢として,まずは理論言語学認知言語学がそれぞれ言語をどう捉えているかについて,少々深めに述べていきます.

 

①理論言語学の言語観

理論言語学者の考え方はこうです.

1.1 生物世界で人間のみがここまで複雑な言語を駆使してコミュニケーションを行うことができるのは,ヒト固有の遺伝的形質として「言語獲得」を可能にする何らかの要因がある.

1.2 1.1のように捉えたとき,言語の本質は意味ではなくその文法にある.

1.3 言語というものは複雑な,かつ無限の「思考」を可能にするものであり,コミュニケーションはその副次的な産物に過ぎない.

 

一つずつ解説していきます.

 

1.1については,前記した記事でも触れていますが,人間言語が他の動物コミュニケーションと決定的に異なる点はその複雑さにあり,それを「記憶力」とか「脳の大きさ」といった観点から導こうとするのではなく,生物として人間が持つ能力なんだという考え方を意味しており,その言語獲得を可能にする要因こそが「普遍文法」すなわちUG(Universal Grammar)だと仮定しています.UGというのは,特に障碍を持っていない人間であれば誰もが脳内に備えており,外界からの刺激(両親や親戚などの発話,1次言語データという)によってUGが「安定状態」になることで我々の「母語」へと形を変えるのです.幼児の記憶力というのは成人のそれと比べて遥かに質的に劣っており,また,幼児の言語獲得の期間の短さや外部からの刺激の圧倒的な貧困を考えると,一般認知能力によってのみでヒトの言語獲得過程を説明することは不可能であると我々は考えます.

「日本語と英語で全然形が違うのに,同じUGから出来上がっているなんて考えられない」なんておっしゃる方も多いでしょうが,これは理論言語学的には誤った解釈によって導かれた指摘であります.

理論言語学においては,目に見える形で現れた言語表現ではなく,その奥深くにある構造こそが「言語」であり,そのような構造こそが言語の本質なのだと考えます.そしてその構造は,本質的には世界中の言語に共通したものであり,より踏み込んだ言い方をすると,その構造を惹起する「統辞演算」というものは世界中の人間言語において普遍的規則を持っているのです.統辞演算によって生成される人間言語の文法というのは,階層構造を持っており,その統辞演算は再帰的に適用されることができるため,この階層は原則無限に続くことができます.この無限性(離散無限性と言います)によって,無限の思考が可能になるわけです.

 

1.2のように考える理由も,これではっきりとしたでしょう.そういった統辞演算規則こそが「文法」の核であり,その「文法」があるから,ヒトは言語を持ち得たのです.言語は「意味」を伴いますが,その「意味」も文法無しではもっと皮相的かつ単純なものであったはずです.

 

そしてこのような考え方は,そのまま1.3にもつながります.

コミュニケーションを行う際に必要になるのは,「思考」することです.思考できなければ,我々が内在化させた(脳内で生み出した)思案や意見を外在化(発話して相手に伝える事)できません.この「思考」を可能にするのがシンタクス,つまり「普遍文法」なのです.トリの羽は卵を孵化させるために進化したものでありますが,現在では空を飛ぶ道具としても使用されています.それと同様に,ヒト固有のこの言語(ないし文法)も,思考の道具としての遺伝的形質から,コミュニケーションの道具という副次的な効果も持つようになったのです.

 

 

認知言語学の言語観

2.1 文法構造そのものも意味解釈上の役割がある.

2.2 語と文法は連続体を成している.

2.3 言語とはコミュニケーションの道具,すなわち意思疎通のためにあるもので,意味こそが言語の本質であり,それは人間の持つ高度な認知能力の一つの産物に過ぎない.

 

こちらも一つずつ解説をしていきます.

 

2.1を説明するのにうってつけの例を出します.

(a) Mary gave John a book on linguistics.

(b) Mary gave a book on linguistics to John.

中学や高校の授業では,(a),(b)の両表現は全く同じ意味を持つため,言い換え可能であると教わりますし,実際に入学試験ではその前提を基にした問題も散見されます。しかし,実のところ両表現には大きな意味的乖離が存在しております.

(a)のような構文は二重目的語構文と呼ばれており,「メアリーがジョンに言語学に関する本をあげて,ジョンがそれを受け取った(受け取り,今も持っていて,それを読んでいる)」という風に解釈され,動詞の意味が及ぶ範囲(作用域)は”John"と"a book on linguistics"の両方になります.

対して(b)のような構文は与格構文と呼ばれており,「メアリーがジョンに言語学に関する本をあげた」と解釈されます.(a)との違いは,"to John"が動詞gaveの作用域に含まれないことです.つまり,(b)のような与格構文では,実際にジョンがそれを受け取って読んでいるかどうかまでは問わず,あくまでメアリーがジョンに本をあげたという事実のみに着目しています.

その証拠に,

Mary gave a book on linguistics to John, but he rejected it.

とは言えても,

Mary gave John a book on linguistics but he rejected it.

とは言えません.

このように,文法も重要な意味役割を担っていることから,文法を自然物のように捉える①とは決定的に違う言語観を持っていることが伺えます.

 

このことは,2.2の説明にもつながります.

幼児は最初,他者(典型的には両親)の発話を聴き,典型的な表現というものを学習します."gimme (ちょうだい)"などはその最たる例で,"give me"という表現を1つのチャンクとして認識し,"gimme"という一語として解釈します(ゲシュタルト).その後,言語刺激を受け続けることで「学習」し,"gimme"が"give me"であることに気づき,さらにそこから"Verb Object"のようにより抽象的なパタンを抽出し(スキーマ),さらには"Verb Object1 Object2"や,"Verb Object2 to Object1"のようにそのスキーマを拡張していきます.そうして拡張したスキーマに,様々な語彙を当てはめる(ことができる)ことにより,文法というものを習得し,文法にも意味役割を担わせることが可能になるのです(カテゴリー化).つまり,文法と語彙は連続体にあるのです.

ちなみに,このスキーマ形成やカテゴリー化にはメタファーメトニミーといった認知操作が深くかかわっています.メトニミーについては,下記の記事で簡単に説明しているので,是非ご覧ください.

lennonmccartney122620.hatenablog.com

 

これらをまとめると,2.3に述べられているような考え方は自然に導かれます.文法習得や語彙の習得というのは,人間が持つ高次な認知能力(スキーマ化やカテゴリー化,メタファー/メトニミーも当然その一部)の産物であり,従って言語とは他者と自分との相互の意思疎通を通じて習得するものなのだというのが,認知言語学における言語観です.幼児の他者との意思疎通は共同注意などの一般的認知機構によって行われますし,言語習得のパラダイムには全て認知能力が関わっているのだということになります.つまり,言語の本質は,ヒトの持つ高度な一般認知機構によって算出される意味である.

 

 

 

ここまで読んでいただいた皆さんはもうお気づきでしょう.理論言語学認知言語学の相違というのは畢竟,言語をどの角度から見るかの違いに過ぎません.

理論言語学者は,「言語があるから思考が可能なのである.言語(シンタクス)が複雑な思考を可能にし,高度な認知能力の根源であり,それが遺伝だとするならば言語は獲得するものである.」と考えています.

対して認知言語学者は,「ヒトは,高度な認知能力があるから言語を使えるようになった.言語は即ち種々の認知能力の産物に過ぎず,コミュニケーションのためにある.つまり,言語とは意思疎通などを通じて習得するものである.」と考えています.

 

長々と書いてきましたが,煎じ詰めると,言語が先か認知が先かという考え方の違いに全て帰着します.そのどちらが正しいかは,これからの研究が明らかにしてくれます.

そして,ここまで読んでいただければわかる通り,言語理論の研究というのは,認知科学に他なりません.更にシンタクスを扱う理論言語学では,物理学や数学,生物学,医学,脳科学文化人類学情報工学,ロボット工学等の知見を活かしたアプローチも盛んになってきました.一方,認知言語学は心理学や社会学,論理学,哲学等との結びつきが非常に強いです.これから先,様々な分野の研究が進むことによって,言語学がより面白くなることは請け合いでしょう.

 

皆さんは,理論言語学認知言語学,どちらの方が肌に合いそうですか?

 

今日はこの辺で筆を擱かせていただきたいと思います.

それでは,おやすみなさい.

やかんが沸いたの「やかん」って?

お久しぶりです.

 

いやぁ,これまた忙しくて,ブログの更新を怠っておりました.見ていただいている方々には申し訳ない思いでいっぱいです.

 

今回は,私の専門と(いい意味でも悪い意味でも)対立している,「認知言語学」という学問における一つの理論: メトニミーについての話です.

 

最近めっきり寒くなってきましたね.肌寒い朝に起きて飲む温かいお茶がすごく美味しいです.

この温かいお茶なんですが,もちろん作る時にはお湯を沸かしますよね,やかんの中に入れて.タイトルにある通り,お湯が沸いたら私たちは「やかんが沸いた」と言いますよね.

でもこれ,冷静に考えるとおかしくないですか?

「沸いた」のはあくまで「お湯」であって,「やかん」ではないはず.なのに我々は「やかんが沸いた」という表現に対して何の違和感も覚えません.これはなぜでしょうか.その謎を説明してくれるのがメトニミーです.

 

メトニミーとは,わかりやすく言えば「身体世界において捉えにくいものを,それと(カテゴリー的に)隣接したより捉えやすい事象ないし物質で代替すること」です.わかりにくいですね,すみません.

 

「やかんが沸いた」を例にとりましょう.

我々はお湯を作る時,まずやかんの中に水を入れ,それを加熱することで沸騰させます.この時,「やかん」という全体と,「(その中に入っている)お湯」という部分という関係が完成します.

やかんの中に入っているお湯は当然不可視であるため,目に見えないそのお湯が沸いたことを,あえて全体である「やかん」について言及することで,部分であるその「お湯」が沸いたということを表現する.これがメトニミーです.

 

全体で部分を表現するメトニミーは上記の例でスッキリしていただけたと思いますが,反対に部分で全体を表現するメトニミーもあります.

 

例えば,「赤ずきんちゃん」.

赤ずきんちゃんは,1人の女の子です.五体満足で,ちゃんとした言葉も話せます.その子が没個性的でない部分をひとつ挙げるとすれば,「頭につけた赤い頭巾」です.そのトレードマークについて言及することでその子を表すことができるのは,言うまでもなく赤い頭巾(部分)とその子(全体)という関係が成り立っているためです.これが,部分で全体を表すメトニミーです.

 

認知言語学では,人間言語のほとんどがメトニミーだと言います.

「新聞を読んだ」は正しくは「新聞の活字を読んだ」であるし,もっと言えば「新聞に黒字で印刷されている仮名カタカナ漢字アルファベットの作為的文字列によって表現される意味を読み解くことで内容を理解した」みたいに,もっとめんどくさい言い方になります.

これを避けてわかりやすくかつ短く伝達できるのは,メトニミーあってこそです.

換言すれば,メトニミーこそが人間言語の基盤となっているのだ.

というのが,認知言語学の考え方です.

 

皆さんも日常会話の中でメトニミーの例を見つけて見てください.

日本人は没個性的でつまらない人種?

こんにちは. 最近,22時ごろに寝て3〜4時に目覚め,そこから12時頃まで起きてまた寝て15時ごろに目を覚ますという生活リズムが完成しております. 不眠症というか自律神経の乱れは我々の寿命を縮めますので,少しでも体に異変を感じたら心療内科に行くことをお勧めします.

 

さて,本日は私が常に抱いている,日本人と英語母語話者の間に存在する思考の乖離についてお話をしようと思う.

 

皆さん,自分の好きなバンドなりアイドルなりを思い浮かべて欲しい. あなたは,なぜそのバンドを好きになったのかを説明できるだろうか.

 

多くの方は"嵌ったキッカケは当時の親友(好きだった人,両親,兄弟,親戚など誰でもいい. 要するに自分以外の他人)が好きだったから"と言うだろう. そして大半の日本人にこのような傾向が見られるため,今度は誰かが飽きると自分も飽きるみたいなことが起こる. 日本のバンドやアイドルの人気が俄かなものである一因と言えよう. こういった事実があるにもかかわらず長い間人気を保っているバンドやミュージシャンには,それぞれ卓越した個性が存在する. たとえばスピッツの曲のメロディにはヒーリング効果がある(精神科の先生が言っていてなるほどとなった)し、歌詞は何か詩的で個々人によって全く異なる様々な解釈が可能であるという良さがある. Mr.Childrenの曲は、当たり前だけど,みんなが気づいていなくて,「言われてみればそうだなぁ」となるような歌詞を,キャッチーなメロディに乗せて運んでいるものが多い. 東京事変はメンバー全員がそれぞれ卓越した技巧を駆使し,様々なジャンルの音楽をミックスするという斬新さがあるし,サザンオールスターズはみんなが言いたいけど言えないみたいなことを歌に乗せて代弁してくれる.

 

少々話が逸れたが,押し並べて日本人にはこういう,"あの人が好きと言っているから私も好き"とか,"世界中で評価されてるから良いに違いない,だから私も好き"あるいは"彼が嫌いと言っていたのを聞いてからなんか好きじゃなくなった"みたいな,集団主義的な考え方をする傾向がある. 敢えて悪い言い方をすると没個性的である. しかしそれが日本人のポライトネスを重視する考え方や,自分の幸せと同じくらい他人の幸せを願い,できることをしてあげるなどと言ったいいところを反映しているとも言える. 留学なりワーホリなりで海外に行って所謂"海外かぶれ"になった厚顔無恥で浅薄な人たちは「日本人は没個性的だから良くないわ」などと声高に主張するが,そういう人たちは物事を主観的にしか捉えられない哀れな人種である. 没個性でもなんでも,それが日本人の特徴であり「没個性的という個性」なのであるというただそれだけの話だ.

 

言語学の中の一分野である語用論においてこのような日本人の特徴は取り沙汰されている.

 

Kaplanという心理学者は,日本人は常に周りを気にしながら話をするので,「あ,このことが言いたい. あ,そういえばあれも.」と言うように,1つの話題について話していてもすぐに他の話題について話し始める傾向があるという. この,周りを気にしすぎるという特徴は,先の「集団主義」の話にも通ずることは容易に分かる.

このような日本人の特徴は,日本人が周りを気にするが故に,周りに流されやすいという一般化ができるのではないだろうか.

 

対して英語話者は,「1つのことに集中しすぎる」傾向がある. 英語の小説を読んでいても,「まずこれについて話す. それが終わったら次はこれについて話す. そのあとはこれ.」という文章構造が見てとれる. 日本人の「あ,これも話したいあれも話したい.」とは正反対のように思われる. 

この事実から分かるように,英語母語話者には,周りをキョロキョロすることなく,一旦自分が決めたことはやり通し,そのあとで他のことを1つずつ終わらせていくというような傾向がある.

この事実は,英語母語話者の「個人主義」的な考え方,信条に基づいている. 自分という個人を最優先すると同時に,他人という個人も尊重するため,多様性を受け入れる体制が,集団の中の個人を重視する日本よりも整っている.

 

この,日本人と英語母語話者たちの,集団主義個人主義に基づく考え方の相違点を考えることは,自分たちが海外の人にはどう見られており,他国の人たちはどのような考え方をするのかということに対する理解が深まり,ひいては異文化理解や外国語力の向上にもつながるのではないだろうか.

理論言語学と認知言語学の大まかな共通点と相違点

最近一層と寒くなってきました. 皆さんも御身体ご自愛下さい.

そういえば(そういえば という日本語は非常に面白い. 英語では状況に応じてspeaking of whichやらby the wayなどと言うのに対して日本語ではコンテクストの如何に関わらず,そういえばという一言だけを使えばそれで済む),私はよくアルバイト先で外国人のお客様の対応をするとき,決め台詞のように"fever is going around in Japan, so please take care of yourself."と言う癖がある(もちろん,寒い日や風邪が流行っている時にしか言わないし,夏場は単に"thank you for visiting us, I hope we can meet very soon again."などという言葉で会話にパンクチュエーションを打つ).

 

個人的に,英語(やその他諸外国語)学習において,半ば強引に口癖を作ることは非常に有効であると思う. 話を円滑に進めるためにはどうしても必要であるし,母国語において我々が口癖を持っているように,外国語を学ぶ際にも口癖をセットしてもなんら問題はないだろう(ちなみに,日本語で話している際の私の口癖は"やっぱり"で,英語で話している場合には"a sort of"とよく言うそうだ).

とにかく,口癖というのは,個々人の会話を円滑にしてくれる潤滑油のような働きをする上に,その人個人の考え方を反映したものであるがゆえに内省する際の材料にもなる. 他人の口癖を見つけるのが上手い人は人間観察が上手く,従って的確なアドバイスをしてくれることが多い. きっとそういう人は,自己分析もうまいのであろう.

 

 

さて,そろそろ本題に入ろうと思う. "そういえば"のところで既にお気付きの方もいらっしゃるであろうが,私は言語学オタクである. 一口に言語学と言っても,私の専門は生物言語学,進化言語学や理論言語学であり,他にも認知言語学や音声学,音韻論など様々な下位範疇が存在する. 言語学の諸分野を截然と区別することは不可能であると言えよう. なぜならば,諸分野は互いの論を強めたり(時には反駁したり)根拠づけたりする働きがあり,二項対立的な関係にあるわけではないからである. ここでは,もっとも言語という事象を体系的に捉えていると言える理論言語学認知言語学の間に存在する乖離と共通点について話したい. 

 

1. 理論言語学(生成文法統語論)

理論言語学(theoretical linguistics)とは,Chomsky (1957)から盛んとなっている言語学の一分野である. その特徴としては,言語とは人間の脳に突然変異的に生起したものであり,その元来の存在意義は"the instrument of thought"であった. コミュニケーションツールとしての言語の使用はいわば二次的な発明であり,言語の本質を捉えるに当たって言語はコミュニケーションツールであるという固定観念に基づいているソシュール以降のアメリカ構造主義を強く批判したこの論文は,世界中の言語学者のみならず有識者たちを震撼させた. ちなみにチョムスキーは世界中の存命の人間の中で論文や本における索引(された)回数が世界一多いことで有名である. 

理論言語学者達は,言語を科学的に捉え,脳科学や生物学,更には物理学などの他分野と関わりながら言語の本質を探る. その方法はある現象から普遍的な規則を発見し,その規則を用いてあらゆる言語事象を説明しようと試みる演繹的なものである. 生成文法は物理に似ていると言える.

生成文法学者(理論言語学者)は,言語は生得的なものであり,人間の脳の中に言語を司る分野が存在すると主張している(ブローカー失語やウェルニッケ失語をその主張の根拠に使うことが多い).

 

2. 認知言語学(意味論)

認知言語学(cognitive linguistics)とは,George LakoffやRonald Langackerなどに代表される言語学の一分野であり,その特徴はまさに1で説明した生成文法の正反対である.

言語ごとの特徴をそのまま捉え,この言語にはこのような認知的作用が反映されている,という風にいわば帰納的な方法で言語の諸規則を説明し,言語獲得(あるいは言語生得性仮説)とは真逆の,「言語は文化と個々人の環境を反映したものであり,成長と共に人間はあらゆる周りの人間の刺激を受けることで言語を"習得"していく」というのが認知言語学者の考えである. サピアウォーフ仮説(Sapir-Whorf Hypothesis)はそのような考え方の最たる例と言えよう. 簡単にサピアウォーフ仮説を説明すると,「言語は思考や文化を反映したものであり,たとえばイヌイットの言葉には雪を表す単語が7つあるように,その民族や人々の生活の模様や実態を大きく反映しているのである」と言ったところか. 

認知言語学者は私から言わせれば「メタファーオタク」である. あらゆる言語現象をメタファーで説明し,メタファーこそ人間言語の特徴だと言い張る姿勢は正直に言ってあまり理解出来ない.

 

敢えてこのような言い方をするが,理論言語学は理系的であり,認知言語学は文系的と言える.

 

まあそもそも認知言語学というのは生成文法(あるいは理論言語学)に異議ありと言いたくて仕方がなかった人々によって確立された学問であるので,両者が啀み合うのも無理はない. しかし私から言わせてみれば「生成文法vs認知言語学」みたいな単純な対立構造を考える言語学者(沢山いるが)は全く言語の本質をわかっていない無能であり,両者のいいとこ取りをし,さらには他の学問とも整合性を見出した新たな言語学の進展が「言語とは何か?」という普遍的かつ難解な問いへの答えに繋がるのである. 少なくともとも私はそう信じている.

 

となると,両者の共通点,そして乖離に目を向けないわけにはいかない. そこで,今回は生成文法認知言語学の相違点と共通点に目を向けていこうと思う.

 

A. 両者の共通点

まず挙げられるのは,生成文法学者も認知言語学者も,目的は等しくwhat is human language?という問いに答えることである. 手段や考え方に差はあれど,両者の目指す先は同じであるという揺るぎない事実は,両者が手を組むべきであることを最も簡潔に表していよう. 21世紀の科学において,対立意見を全て跳ね除けようとする姿勢そのものが間違っているのだ.

また,両者ともに言語の構造に重点を置いている学問だと言える. この点においては,言語の構造の解明を目指すメソッド,あるいはその道筋が完全に異なるが故にわかり合うことは難しい. 私個人は生成文法派なので,認知言語学における言語構造の捉え方には疑問を感じ続けている. そういう意味では相違点とも言えよう.

 

B. 両者の相違点

先に述べたように,認知言語学生成文法では言語構造を捉える方法が全くと言っていいほど異なっている.

生成文法は,言語の文法構造の普遍性に着目して普遍文法(UG: Universal Grammar)の解明を目指しているが,対して認知言語学は言語構造(あるいは語そのもの)の持つ「意味」に着目をする. 認知言語学の根底にある「言語は生得的なものではなく学習することで得るものである」という考え方に沿ったものである. 生成文法では意味と文法は(ほとんど)切り離して考える. 言語を言語足らしめる唯一無二の存在は文法であり,文法とは全ての人間に等しく突然変異によって与えられた「思考のための道具」であるが故に二次的作用としてコミュニケーションとしての使用が可能となったのだというのが私を含む理論言語学者の主張であり,それに対して「狼に育てられた子供達は文法を持たない言語を話すし,フィリピンの田舎町で日本語を母語とする人間と英語を母語とする人間が会話する際に用いられる言語にも文法は存在しない(このように文法をもたない言語をpidginという. cf: creole.)文法ではなく意味こそが言語を言語足らしめているのだ」と反対するのが認知言語学者である. UGの諸言語への応用にはcritical periodが存在し,0〜6歳までの間に一切の言語インプットがない場合は言語そのものあるいは文法を持たないまま育っても何ら不思議ではないというのが私の見解であるが,話し始めると50ページほどの論文が書けてしまうので割愛させていただく. 

 

C. まとめ

以上,理論言語学認知言語学の共通点と相違点を見てきてわかるように,私は根っからの生成文法派である. だからと言って私が,認知言語学がまるでダメだ,ということでは決してなくて,寧ろ,言語が思考の道具として人間の脳にUGと共に突然変異的に生起したとするならばコミュニケーションツールとして作用するのは当たり前のことであり,それ故に言語の意味的な側面について塾考することも言語脳の解明,言語の生得性の証明に必要不可欠であると思う. 繰り返して言うが,両者のいいとこ取りをした上で,生物学,脳科学,物理学,心理学,社会学,論理学,さらには哲学などといった学問と複雑に関わり合い整合性を見出すことで,学際的な言語学の在り方が見えてくる. このような在り方が,これからの言語学にとって最も重要な形であると言えよう.

そのような在り方を最も簡潔かつ的確に表しているのが,私の専門である生物言語学や進化言語学なのだが,これについてはまた次の機会に書こうと思う.

 

(認知言語学も理論言語学の下位範疇の1つであるが,ここでは筆者の意図で敢えて認知言語学と理論言語学を分けている.)