まーじブログ

言語学の基礎的,専門的な話や政治思想の話などを徒然なるままに.Twitter: @linguisticmerge

George Orwellの1984とAnimal Farmを読んで.

初めまして

これからちょくちょく読んだ本の感想とか,言語学に関する面白い事象や理論について書いていけたらと思っています.

 

さて,9ヶ月ほど前に精神病を患って以来,私は専ら読書にハマっている.

読書と言っても,読むのは基本的に学術論文か,それに類する学術書ばかりで,多くの方が読書という2文字を見て連想されるような小説と呼ばれるジャンルには縁のない人生を歩んできていた(とは言っても、並の人よりは小説は読んできたつもりだが.)

 

そんな私に小説を読む欣びを与えてくれたのは,これまた言語学オタク感がして恥ずかしいので声を小さくして言うが,ノームチョムスキーである. 彼の論文,講義,テレビでの取材などを拝見していると,"George Orwell's 1984"という台詞を見かけることがしばしばある. 一応高校では英文学についても勉強していたので,ジョーオーウェルが何者か,1984年という小説がその卓越性故に大ヒットを記録し,さまざまな小説家に影響を与え続けていることは知っていたが,具体的にジョーオーウェルの何がすごいのかということまでは知らないままであった.

理論言語学に傾倒している私にとって,チョムスキーという学者は,言語学界のビートルズでありアインシュタインでもある. そんな彼が事あるごとに言及するジョーオーウェル1984年を読まずして,チョムスキアンを名乗れないと思ったのが,1984年(と動物農場)を読むに至ったきっかけである. まぁこれは5年ほど前の話で,精神病を患う遥か前のことであるが.

 

こうして1984年を読み始めたわけであるが,なるほど前評判通り造語難単語が多い. ただ,ジョーオーウェルの凄いところは,難しい単語も造語も全て(少なくとも有識なネイティヴの高校生程度の英語力があれば)予測できるようになっている点であろう. ニュースピークやプロールなど,聞き覚えのない造語が出てきたとしてもそれらの意味は全て簡単に予測することができる上に,その単語たちが物語の核を担っているのである.

 

1984年という小説は,スターリン時代の全体主義ファシズムを痛烈に批判したものであるというのが一般的な見解である. しかし,皮肉にもファシズム社会主義の厭世的未来を描いたこの小説は,資本主義が基盤となっている現在の我々の社会においての政治的問題や社会的堕落を予期していたかのごとく忠実に再現している.

ディストピア↔︎ユートピアという二項対立,二律背反のように思えるこの2つの言葉のうちどちらを1984年の世界観に当てはまるかという質問をされれば,殆ど皆が前者と答えるだろう. しかしジョーオーウェルはこの1984年において,ディストピアユートピアという言葉の間に存在すると言われている意味的な乖離に疑問を投げかけているように思われる. ユートピアという単語はギリシャ語に由来しており,その原義は"存在しえない世界"である. これが楽園的な意味で定着したのち,否定接頭辞disが形態素としてutopiaにくっついたディストピアという単語が生まれた. 意味はまさしくユートピアの反対である.

話を元に戻すと,ユートピアと呼ばれる世界を哲学的に捉えた時,それは個々人にとって不満が一切ない世界のことを指す. 要するにそれを客観的に,まるで神にでもなったかの気分で外野から見つめて「あぁ,あの人たち本当は洗脳されてるだけなのに,それに気づいてない. ディストピアで生きてて可哀想だ」などと宣った所で,それは外野である個人がそう判断しているに過ぎない. 本人がそれをユートピアと判断し,享受している限りその人にとってユートピアであることに変わりはない. 要するに,ディストピアであるかユートピアであるかということに関して意味的な相違などなく,両者の間に存在するのは個々人の幸せの尺度,物差しによって計測された「私にとっての幸せとはこれだ」という迷信の元に規定された基準に基づいた幸せの振り幅の違いのみである.

主人公スミスは独裁的でなおかついき過ぎた全体主義推し進めるビッグブラザーのやり方に疑心暗鬼になり,過去を改変するという自身の仕事にも嫌気がさしたことで皮肉にも洗脳によってビッグブラザー万歳人間になってしまうわけであるが,洗脳後の彼にとっての世界はまさにユートピアであり,それまで彼がディストピア以外の何物でもないと思っていた世界が,その実態を変えることなくユートピアへの移り変わったのだ.

つまり,生き過ぎた社会主義が悪いとか,現在の社会においてもこのようなことが密かに行われているとかそういうメッセージももちろんジョーオーウェルの中にはあったのだろうが,本当に彼が伝えたい事実はそんなことではない. もっと哲学的に考えた時,彼の意図は見えてくる.

それは,自分の生きる世界に満足するかしないかは個々人の自由であり,その世界が満足できるものか否かを測る方法は我々の非科学的な尺度を用いることによってのみ可能であるということだ.

 

余談だが,サピアウォーフ仮説に基づいて話を進めるのであれば,言語が我々の世界を切り分けるため,ニュースピークしか存在しないユーラシアでは個々人が全くもって同じような思考しかできず,従って統率,洗脳を受けやすいため、独裁政治の被害者となっているのだと言い切ることができる. サピアウォーフ仮説には真向から反対している私も、1984年を観た後に「あ,ウォーフって意外とまともなこと言ってるのかな」と一瞬でも思ってしまったのでジョーオーウェルは私のことも洗脳したと言えよう.

 

 

動物農場についても同じことが言える. ジョーオーウェルはこの小説を通して,社会主義という電車が向かう終点は独裁的で全体主義的なゴールを追い求めすぎるが故の破滅であるということを私たちに訴えている. 痛烈なスターリン批判を織り成すこの小説は,ジョーオーウェル自身のスペインでの戦争経験が,ヘミングウェイなどとは全くもって異なる形で活かされていると言える. ここでも、多くの人々(動物たち)にとってはユートピアであるように思われる世界を他の視点から切り取った時に,途端にディストピアのように思われるということが述べられており,1984年同様,弱者の肩身の狭さが気味悪いほどに現実に忠実に描かれている.

ただ,1984年と動物農場との間の相違点は,前者ではディストピアユートピアを形成する(個々人の脳内の)洗脳,そして独裁を描いていたが,後者においては全く逆の,ユートピアディストピアを形成する全体主義の在り方を描いているのである.

恐らく動物農場ディストピアと認識され失敗に終わった原因は,独裁者自身の知性と資本主義的な欲望の芽生えであろう. 1984年では資本主義的側面は描かれず,動物農場ではそれが描かれていたところにも,ジョーオーウェル自身の政治的観念や信念が伺える. 徹底した社会主義は人々を洗脳しない限りディストピアであり続けるが,洗脳が完了すればそれはユートピアとなり,社会主義に資本主義的な概念が織り込まれた瞬間にその社会は崩壊する.

 

資本主義と社会主義の両立が不可能であるこの事実は,丁度ユートピアディストピアの関係のように思われる.